追憶法話2  

「追憶法話1」の続きです。

2.臨終とは?

 昭和50年代、高度経済成長の日本。安定期に入った頃でしょうか?テレビ文化の華やかかりし頃流行った番組に「赤いシリーズ」とか言った、山口百恵出演のドラマなんかがありました。また、昼メロドラマなんかで人が死ぬ場面の描写が良くありました。お医者さんが患者の脈をとって首を横に振りながら「御臨終です」というセリフが良くありましたね。ところが、最近あまり聞きません。むしろ「大往生でしたね」ということの方が多いのではないでしょうか?

 なるほど、私も肉親の最後もさりながら、多くの方々の死に目に遭っております。昨年、顕証寺の御信者の六十半ばで亡くなった方の最後を病院で見届けましたが、御主人から連絡を受け、病室へ駆け付けた時、装置の音がピピッと鳴っていて、ご本人の耳元で呼びかけましたが、反応がない。口元に手をかざしてみても呼気が感じられない。もう既に亡くなられていたと思います。でも、時折、波形が波打つのです。まだ、子供たちが揃っていないので、そのままにしてあったのですが、看護師さんが二回くらい先生を呼びますか?と来ましたが、結局、私が駆け付けた一時間後に娘さんが到着し、先生をお呼びしました。まず、ペンライトで瞳孔の検査。そして、私がしたように呼気の確認。手かざしと聴診器。脈を調べて、腕時計を見ながら「18時36分、死亡したとみられます」と言われました。えっ待てよ「見られます?」と思った瞬間、装置の事と一連の確認の理論説明をなされ、死亡と見られます、と告げられました。私は、ちょっと頼りないなと思いました。昔ですと「御臨終でございます」ともっと死には「威厳」というか、人の最後には重みがあったというかそういうイメージを持っていましたから、ちょっと腑に落ちませんでした。
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 先程、大往生という言葉を述べましたが、「大往生」というのは、かつて永六輔さんが書いた本のタイトルで有名ですが、一般的には「安らかで立派な死」という解釈です。そもそも「往生」というのは、極楽浄土へ往って、生まれ変わることを言います。それにはただ死んだだけでは往かれない。これは、浄土宗や浄土真宗等のいわゆる念仏を唱える宗旨の考え方です。南無阿弥陀仏と阿弥陀如来の救済を信じる人達の考え方です。それが、「往生際が悪い」とか、仏教用語として世間に用いられた。「大往生」も永さん御自身、実家がお寺さんで、俗臭ふんぷんたる僧侶たちを見て「ああ、坊さんにはなりたくない」という反骨精神を持った著者が、いろいろな経験をして、やはり人間「大往生」するような生き方をしなけりゃダメだと半ば悟った気持ちで書かれたのが大うけして、そして「大往生」のベストセラーによってこの言葉も流行ったのではないでしょうか?往生、大往生するには、この本でも示唆されている日頃の私たちの考え方、行いにあるのです。

 ところが、浄土宗を開いた法然上人や念仏の信仰を唱えた聖人たちの最後が良くないということが伝えられているのです。「朝題目、夕念仏」っていうのをご存じでしょうか?これは比叡山、つまり天台宗の宗旨を判り易く言ったものです。朝、御題目を唱えて勤行し、夕方は同じところで念仏を唱えて勤行することです。法然上人も親鸞上人、禅宗の道元、栄西、そして日蓮聖人も皆、この比叡山で学んでいるのです。

 しかし、その後、法然上人は念仏を唱えて浄土宗を開きました。弟子の親鸞は浄土真宗を。栄西は禅の修法を示し臨済宗、道元は曹洞宗をそれぞれ開宗したのです。日蓮聖人だけは、比叡山天台宗の依経である法華経の信仰を更に実践され、御題目つまり南無妙法蓮華経と口に唱えることを専らに実行されたのです。念仏の思想は厭世といって、この世は汚く、厭な世だから弥陀の念仏を唱えて、早く極楽浄土へ往きましょうと世を儚み、捨てるような考え方です。

 それに対し、御題目の精神は、この世は濁った嘘偽りの多い世の中ではあるが、それはちょうど水面に綺麗に咲く蓮華の華が、水底の泥の中に根差しているのと同じように、この世の中にあって、正しいみ佛の教えに基づいて従えば、必ず佛・菩薩・諸天善神のお守りがいただけ、この世の中もみ佛が在しますのと変わらない安穏な世の中にすることができる娑婆即寂光という考え方であります。その為には、まず他人を思い、人助けの精神で行動できるようになりましょう。そこで南無妙法蓮華経とお唱えするのです。また、御題目を唱えると自然にそのような精神、考え方にもなってくるのです。そして、臨終の際、どんなに罪深い人で強欲な人でも「ああ、死は怖いけれどどうか御題目さまお願いします」という気持ちでお唱えしますと、み佛の処へ連れて行っていただけるのです。
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 実は、日蓮聖人は、「往生」という言葉はあまり使われていません。それは、往生を唱えた法然上人の臨終が良くなかったということを比叡山に学ばれているときに知られたからです。日蓮聖人も朝には念仏を唱えて、むしろご自分も念仏の思想を研究して故郷へ帰ろうと思われていたくらいだったのです。法然上人は平清盛と同じ「熱病」で亡くなっております。その前後に出た念仏提唱者らも柳の木に登って投身自殺をしたが、落ちて死にきれず、何十日も苦しんで死んでいます。それまで念仏を信じていた日蓮聖人にとってショックな事実だったと思います。

 なにがショックだったのかを詳しく言いますと、法然上人が天台宗の出身でありながら、その依経である「法華経」の教えを「捨てよ、閉じよ、閣(さしおき)、なげうて」と批判して、西方極楽浄土の阿弥陀如来を立てて救済を説いたのに、最後に苦しんで熱病にかかり死亡したことだったのです。日蓮聖人は考えられました。「往生」や「大往生」ではなく、如何に「臨終」が大事であるかと。
 
 み佛つまり、仏教の教主はお釈迦様。釈尊とも言いますが、インドの釈迦族の王子として出生したゴータマ・シッタルダは、何、不自由なく文武両道を究め、妃を貰い子供ももうけましたが、四門出遊というお城の外で人間の生老病死、四苦八苦を垣間見、人生に懐疑を抱き、19歳で出家し、難行苦行を経て30歳にして菩提樹下において悟りを開いて成道されます。爾来、50年間、ブッダとして悟りの法である「仏教」を説かれ、80歳にして涅槃寂静に入られたのです。

 仏教はむしろそうした釈尊の生き様、人生観を教示したもので、仏教には過去、現在、未来の三世の救済が説かれているのです。その教えを収録した仏典には、様々な佛や菩薩、諸天善神が登場しますが、それは様々な角度で、人間とは宇宙とは、そして今をどう生き、死んでいくのか。生命に限りがあるのか、無いのか?という問いかけが含まれています。日蓮聖人は「釈尊出世の本懐は、人の振る舞ひにて候ひけるぞ」と示され、私達人間の「来し方 往く方」がお釈迦様の言いたかったことだぞと強調されているのです。そして「先、臨終の事を先に習ひて後に他事を習ふべし」との死生観が人生の指針であると言及されています。

 臨終と言えば、山田風太郎著「人間臨終図鑑」という面白い本があります。著者も既にお亡くなりになっておりますが、古今東西292の著名人の生き様、特に死ぬ時にどのような亡くなり方だったのかというのを調べ、上下巻特の3巻が編集されています。
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その中にはキリストの最後まで書かれていますが、敬虔なクリスチャンだったら「それは偏見だ」と言われかねないような書き方ですが、敢えて書かれているのは興味深いことです。皆さん、西暦は、キリストの生まれた年が紀元ということは、誰でもご存知だと思いますが、人間臨終図鑑では、紀元前4年と生年がズレて表記してあります。また、キリストの最後について「神は我を見捨て給うか」と十字架に磔された最後を描写しています。キリストは32歳で亡くなっています。

 もう一つご紹介しますと、かの宮沢賢治です。37歳で亡くなっておりますが、有名な「雨ニモマケズ~」のような最後で、32歳の時に肋膜炎にかかり、肺結核と最後は肺炎で死んでいます。昭和8年9月20日の朝、百姓への農業指導をしていた賢治の処へ、一人の農夫がやってきて、肥料の事でと賢治は病気をおして病床から起き相談に乗ったのです。しかし、その農夫はまた同日夕方に再度訪れて、結果賢治は急性肺炎を起こしてしまったのです。翌9月21日、母親が用意した土瓶の水を美味しそうに飲み、オキシフルで全身を消毒してもらい、母親が部屋を出ようとして、もう一度覗き込むと、呼吸がおかしくなっていた。それでも意識はハッキリしていて、国訳法華経の印刷や頒布のことについて遺言したのが最後。午後1時30分の事だったそうであります。それにしても、この農夫はとんだ死神ですよね?でも、この無神経な百姓の名は未だに知られていないそうです。賢治の家族をはじめ、純朴な人々の思いやりから不明ということにされたのだろうと山田風太郎はコメントしています。それもそのはず。宮沢賢治の母親はいつも口癖のように「人間というものは、人の為に何かしてあげる為に、生まれて来たのス」と言っていたそうであります。まさに「雨ニモマケズ・・・サウイフモノニワタシハナリタイ」を実践した生き様であり、臨終の姿であると思います。
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 世間の諺に「臨終の一念は多年の行業による」とあります。臨終のときにその人の人となり、行いが全て表れるというのです。血で血を洗うようなことをすれば因果応報になるのは当然でありましょう。毀誉褒貶定まらぬ世の中にあって、最後「棺を覆って事すべて定まる」かどうか?相手を憎めば、憎まれる。悪口を言えば、言われる。平清盛、源頼朝、織田信長等。権力を欲しい儘に、殺傷を繰り返し、信長は比叡山を焼き討ちし、何千という僧侶、女子供を殺害しています。その最後終焉は、味方であった明智光秀に謀反を起こされ本能寺で自決しています。

 実は、臨終が良いか悪いかで、死後、浄土へ往けるか地獄へ行くかも決まるのです。古来から仏教では、臨終の相、姿によって浄土へ往くか、地獄へ堕ちるかが決まるとされています。龍樹菩薩という方が「大智度論」という書を残していて、それには「臨終の時、色黒くなれるは地獄の相」とあります。反対に、生前、どんなに器量が悪くても素直正直な人は、臨終の時、色白く顔形姿も柔らかく、穏やかであれば天に赴くとあります。

 仏教では生まれ変わりを信じますが、詳しく言いますと輪廻転生と言います。生きとし生けるものは生まれ変わり死に変わりすると説かれるのであります。これは宇宙の生成、理を見ればわかります。星の一生と同じなんですね?仏教では、宇宙世界の単位を心と捉えます。つまり、私たちの心、もう少し別の表現でいえば魂に宇宙と同じ世界が詰まっている。宇宙には無数の星々がありますが、私たちの心、魂と全宇宙は繋がっており、またその心に果てしない宇宙が存在するのです。

 先頃、ヒッグス粒子の発見が証明され、宇宙の創成が解明される大きな手がかりと報道されました。専門に勉強しなければわからない理論ですが、その宇宙が我心に有ると悟られたのが佛陀釈尊なのです。そして、その心、宇宙は十の精神世界からはじまるとされます。十界と言います。それを下から言いますと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・佛と次第します。私共の輪廻転生はせいぜい地獄から天上までの六道を行ったり来たりするのです。その上は、聖者の世界でそれなりの修行をしませんと六道から免れず、往くことができません。六道輪廻では常に迷い、苦労をしなくてはなりません。その中でも、地獄・餓鬼・畜生は最悪の世界です。
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 ここに行くと人間に生まれ変わることさえ難しくなります。譬え人間に生まれ変わったとしても、すぐに死に殺される。これが地獄の果報なんですね?餓鬼は飢え苦しまなければなりません。大変痛ましい話ですが、生後間もない赤ちゃんを母親が育児放棄、ネグレクトとも言いますが、結果、死んでしまっていたという事件があります。何の罪もないと言いますが、そういう境遇に生まれてくるのも餓鬼の果報。つまり前世の行いの結果とも考えられます。これは餓鬼。常に人から蔑まされる、まるで犬猫のような扱い、そして本能の趣くままににしか生きない。性欲や食っちゃ寝るに明け暮れる。仕事もせずダラダラと目的もなく生きているだけだとしたらこれは畜生と言われます。

 今の世の中にはこういう仏教の考え方は殆ど知られていません。昔は、子供が勉強するところの一つにお寺がありました。お寺には恐ろしい地獄絵図というのがあって、嘘をついたら閻魔さんに舌をぬかれる、人を殺せば体を常に鬼に切り刻まれる「なます地獄」に行くぞ!と脅かされ、それが一つの人間教育になっていたのではないでしょうか?痛ましい事件が続々と報道される度に胸が痛みますが、あの滋賀の自殺した中学生はまさに「修羅場」であったのでしょう?遺族や関係者は、衷心より冥福を祈って上げ、少しでも次の一生はステージが修羅にならぬよう、もういちど平穏な人間として生まれ変わるよう供養してあげるべきであります。しかし、驚くことにいじめをした数人の生徒が体育館での黙祷の場面で、笑っていたというのですから。人の死をなんだと思っているのか。この子らは法律で罰せられなくとも、ちゃんと因果応報で裁かれます。これは地獄行きです。

 さて、話しは長くなりましたが、もう少し臨終の相でどのようなものがあるか、仏典をあたりますと、まず地獄や餓鬼、畜生に生まれ変わる臨終の相に25が挙げられています。

地獄に堕ちる相として15あります。
①自分自身や夫婦家族を睨む 
②両手をあげて宙をひっかく 
③宗教(神仏)を信じない、教えにも従わない 
④悲しくて嘆き叫び涙を流す 
⑤汚物(糞尿)をたれても意識がない 
⑥目を閉じて開かない(ぎゅっと閉じて、恐ろしくてみたくない)
⑦常に頭や顔を覆う 
⑧横に寝ながら飲み食いする 
⑨体が臭くて汚れている 
⑩手や足が震える 
⑪鼻柱や口が曲がっている 
⑫右目がピクピクする 
⑬両目が赤く充血する 
⑭顔をうつ伏せに伏す 
⑮横向きに伏す

餓鬼に趣く相として8あります。
①唇をなめる 
②体が火のように熱くなる 
③飢えや喉の渇きを訴える 
④口が腫れて唇が合わせられない 
⑤目が乾燥して合わない 
⑥小水がでない、大便たれながし 
⑦右ひじが冷たくなる 
⑧右手は常にこぶしを握っている
 
畜生に趣く相として5あります。
①妻子を愛する故にじっと見て目を離さない 
②手足の指が縮む 
③体全体から汗が出る 
④がらがら声になる 
⑤口から泡をふく

 いかがですか?ただ、これらの項目が大半を占めるということなので、一つや二つは臨終の相としてどんな方でも表れると思います。普通に死にたいですよね?

「追憶法話3」へ続く…


大ボン(ブログ管理人)コメント:
すごく勉強になるお話で、法話だからこそ聞けるお話ですね。
(●゚ェ゚))コクコク
十界の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・佛。輪廻転生で人間は地獄から天上までの六道。その六道輪廻でたとえ苦労をしたとしても、地獄・餓鬼・畜生だけは行きたくないものですね(艸Д<)

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