追憶“Special”法話編4  

「法話編3」の続きです。
4.お天道さまが見てござる imageCA0IGGX5.jpg 
 先程、申しましたように、今の世の中は科学至上主義の考え方に囚われて、即物的な考え方をする人が増えました。でも、一方、迷信をどこか信じているという陳腐な姿があります。祟りというとおどろおどろしいイメージです。例えば、将門の首塚というのが東京のビル群の間に有って、約900年も経った今でも動かそうとすると関係者の体調が悪くなったりということがあるそうです。これも迷信かと思いますが、霊というものはないとは言えません。怨霊とか地縛霊と言うのはあるような気がします。なぜなら、人間の憎悪の念と言うのは、恐ろしい負のエネルギーだからです。「呪ってやる」なんて言われたら誰でもゾッとしますよね?そこまでいかなくとも、何か視線を感じる。振り向いたら愛する人が愛おしそうに見ていたとか、言葉や電信電話でなくても意思の疎通というものがありますよね?
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 四知という言葉があります。『後漢書楊震伝』からの出典ですが、二人の間だけの秘密でも、天も知り、地も知り、我も知り、相手も知っているから、いつかは他に漏れるものであるということ。楊震は後漢の官僚で、当時の最高位である三公にまで昇った人物です。後漢は側近政治の悪弊が蔓延り、賄賂が横行した王朝でした。
 この話も、そうした賄賂に関係した話です。楊震が地方の太守に任命されて任地へ向かう途中に立ち寄った場所で、その県の県令王密が夜、楊震の宿舎に尋ねてきました。王密は以前、楊震の部下だった人物で、その当時目をかけてくれたお礼ですといって、楊震にお金を渡そうとしました楊震はこれを断りますが、王密は「夜分のことですので、私がここにやって来たことも、お金を渡したことも、誰にも知られることは有りません」といってなおも渡そうとしました。それに答えた楊震の言葉がこの四知です。
「あなたは誰も知らないと言うが、そんなことはない。天が知っている、地も知っている。何より私も知っているし、貴方も知っているではないか。何事もこの四者が知らないと言うことはないのだ」と。

それが後世「天知る、地知る、我れ知る、子知る」という四知という言葉になったのです。

 日本人には古来から、太陽の存在を敬う意味で「お天道さま」という言葉がありますね。
天地を司る超自然の存在を言ったものでもあります。「お天道さまが見てござる」という教育があったからこそ、即物的ではなく、心や人を愛し慈しむ。自然を大切にし、社会の一員として他人や社会に尽くすという活動に勤勉だったのが日本人の本来の姿であったはず。
 それが今やどうでしょうか?第1回目の「追憶の夕べ」の法話でもご紹介した京都大学教授のカール・ベッカー氏は「日本は不思議な国です。明治以前には『霊』の存在を当然のこととしてきたのに、今では過去の欧米に追従して、この種の現象を真面目に考えようとしない風潮が、特に科学者のあいだに強くあります。欧米諸国はこの方面で、ある意味ではむしろ昔の日本に近づきつつあるのに、逆に日本が、過去の欧米の水準から一歩も進もうとしないのは、まことに皮肉というほかありません」と言っております。
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 日蓮聖人は、『回向功徳抄』というお書きものに「我父母の物をゆづられながら、死人なれば何事のあるべきと思て、後生を訪ざれば、悪霊と成り、子子孫孫にたゝり(祟)をなすと涅槃経と申経に見えたり。他人の訪ぬよりも、親類財を与へられて彼苦を訪ざらん志の程うたてかるべし。悲むべし悲むべし、哀むべし哀むべし。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。七月二十二日  日蓮  花押」と書かれてあります。
この中に「後生を訪ざれば、悪霊となり、子々孫々にタタリをなす」とあります。御文の意味を現代語訳しますと次のようになります。
「自分は死んでいった父母の物を譲り受けて生活しているのに、死人になってここにいないのならば何もばれたりしないと考えて追善供養を怠れば、死んでいった父母であっても悪霊と成り、子子孫孫にたゝり(祟)を起こすと涅槃経というお経に説かれている。
赤の他人が供養をしたとしても、親類が亡き人から財を与へられて生きているのにその苦しみを測って苦を取り除こうと供養をしてくれないのは辛く悲しいことである。悲むのだ悲むのだ、哀むのだ哀むのだ。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。」となります。

 今一度、言いますとここでいう「祟り」というのは、先程の仏教的な「罰」の考えからすると「自業自得」ということになります。悪霊や怨念がそうさせるのではなく、自分自身の親を大切にしないということは、自分に返ってくるのだということです。親に生前、養育を享け、物やお金を貰い譲り受けて来たのに、死んだら御仕舞、御用済みといって追善供養もしない人にはそれなりの後生がやってきてしまいますよ。いざ、そうなった時に親のせい、他人のせいにはできません。自分の所業ですよと。人を思いやらない人が、よい人生を送ることは出来ないのです。

 私達は、欲の為に、自分の欲求が満たされればそれでよいという趣きがあります。でも、それだけだとしたら犬や猫の動物と何ら変わりはありません。時に、犬や猫の方に温情があったりします。仏教ではただ単なる動物は「畜生」といわれますから、人間が、親が亡くなっても肉親が死んでもあるいは友を死で失っても何の感情も湧かず、ましてや葬儀弔いもしない、散骨すれば面倒な儀式など遣らずに随意で時折「思い出して」やればよいという勝手な解釈を遂げたとしたらどうなるのでしょうか?犬畜生以下の考え、行いと言われても仕方ありません。それこそ「罰が当たる」のではないでしょうか?

仏教では、お天道さまが見ているということを「知見照覧」と言います。み仏を始めとして諸天善神は私達の全てをみそなわしていますよ!という意味で「知見照覧」と言う言葉を使います。そのことを考えて教えを踏み外さず処世しなさいといことです。ですから、仏さまご自身が罰を当てることはなく、あくまでも人間が物の道理、法則という道に迷い、踏み外すから「どぶへはまるなり」という「罰が当たる」のです。
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