顕証寺報5月号 所感抄  

顕証寺報 5月

所感抄
                                    顕証寺住職・信清宏章

佛立開導日扇聖人御教歌に

上はすゝめ中は邪魔せず下はおこる
 下々の下かゝはしかりちらける

大意
御利益感得、御奉公成就、寂光参拝の秘訣は、信心増進を促してくれる「友」を選ぶことであり、
世の奥さん方の物腰に譬えられた御教歌です。


 先月末、小松川清秀寺の門祖会の奉修導師を頼まれて、いざ臨ませていただきました。何せ自分の得度親である岡本御導師のところで一座奉修、御法門となると緊張の極みです。
当日の御法門の補足になりますが、寺報に掲載させていただきます。

 よくお話しさせていただく中で、私達日本人は仏教伝来以来、日本人の先祖を大切にする文化に相まって、仏教的な考え方がすんなり受け入れられ、文物を興隆させて文化が発展してきたのです。その一つの象徴が「言葉」です。現代の日本人が普通に使っている言葉の多くが、実は仏教用語なのです。例えば「上品・下品」ですが「あの人は上品な方ですね?」「そんな下品な物言いやめなさい!」と言う場合は「じょうひん・げひん」と読みます。しかし、これはれっきとした仏教用語です。仏教では「じょうぼん・げぼん」と読み、その人の持つ能力や才能をランク分けしたものです。そしてその品格により、命終わっての後生(生まれ変わり後の人生の境遇)も決まるとされ、上下のみならず上品上生~下品下生まで九品あります。「何が出来なくても、宗教なんかしなくても人に迷惑だけかけなければよい」というような生き方は「中品下生」くらいでギリギリであります。下品な生き方は、人の物を盗んで平気でいたり、多くの悪いことをしても恥入らないことで、地獄行き「下品生」の始まりです。

 しかし、たとえ下品下生といえども「善知識」に値うことによって違いが出てきます。値う(あう)と言う字は、妙講一座の随喜段に出てきます。「あゝ有難や、まれに人身を得、適仏法にあへり(値へり)」。私達がこの本門佛立宗の御題目口唱信行の道にお出値いさせていただけたのは、人と人との出会い以上のもので、まさに「善知識」なのです。知識といえば、知ること、理解することと意味しますが、仏教用語としては「仏法を説いて導く指導者」と意味します。善知識とは悪知識に対する語で「善き友、真の友人の意で仏教の正しい道理を教え、衆生を正しく導く者」と意味します。反対の悪知識は、佛道修行を妨げ、悪法・邪法を説いて衆生を迷わせる者、すなわち悪友ともいいます。

 法華経第二十七品に登場してくる妙荘厳王は、バラモンの教えに深く帰依していたのですが、二人の息子に教化され、仏教徒に改宗しました。み仏から「二人の息子は善知識であり、王といえども権威や財産をもってしてもこの因縁はいただけない」と称賛されたのです。また、釈尊ご在世に王舎城の竹林精舎の近くに、東西南北他の六方に食べ物を撒き、拝んでいる不思議な青年がおり、釈尊が問いかけをしました。青年はシンガーラといい、父の遺言でそのようなことをしていると答えたのです。お釈迦さまは「父親の遺言を守っていることは大変すばらしいことだ。しかし、あなたは父親が意図したことを全然理解できていない。父が東を拝んで食べ物を撒けといったのは、自分を産んでくれた両親を敬い、供え物をしなさいという意味であり、南を拝めというのは、色々な知識を教えてくれる先生を敬いお供えをしなさいという意味であり・・・。」と懇切丁寧に教えられたのです。更には人生の処世として「悪友に近づくな」とも教えられました。悪友というのは一見、親切なようだがそのそぶりを見ればわかると。シンガーラ青年は父親が生きている間に釈尊の存在を知り、教えを請おうと言ったのですが取り合ってくれなかったことを告げ、そのような父と自分を許してくれるよう言上し、生涯、釈尊が注釈してくれたことを守り、六方を拝んだといわれます。

 お祖師さまの『三三蔵祈雨事』(昭定1065頁)という御妙判に「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わがちゑなににかせん。たゞあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。而るに善知識に値ふこ事が第一のかたき事なり」と、善知識に値うことが最も大切で難しいとされています。また、『星名五郎太郎殿返事』(昭定419頁)には悪知識について「悪象の為にころされては三悪に至らず。悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る」と、悪象は現代でいうと交通事故のような不慮の事故、あるいは殺害によって死んでも身を破るだけで地獄・餓鬼・畜生の三悪道には落ちないが、悪知識に合えば必ず地獄等に行くといわれているのです。
 
 鎌倉山と江ノ島を開発した菅原通済が後年、「三悪追放」を唱えたとか。売春・麻薬・性病と。確かにこれは「地獄・餓鬼・畜生」の入り口ですね。口の悪い友人が「あれは通済が全部やったことだ」と…。でも、改心して世の為に唱えたことは案外功を奏したとか。

 「うちの嬶(かかあ)は、結婚した頃は細く綺麗だったが、尻も象のようにデカくなり態度も大きくなって、しかも寺にばっかり奉仕してやがる」というご亭主はおりませんか(笑)でも、元々はご自分の親のご信心で今では代わって奥さんが一生懸命やってくれているのですよ。また、そうでもない場合でも、ギャンブルに走ったり、不貞を働くよりお寺で菩薩行の御奉公をされている立派な「カカ」です。「ほら、日曜日なんだからお寺へ参詣をとプリプリとする」でも、ご信心を勧める人なんです。悪いことをやって、それを棚に上げて怒っていることとは違うのです。まぁ、できれば言葉上手に勧め励ましてくれれば良いですが(笑)


開導日扇聖人御指南に

「四五抄云 若値悪友則失本心
  ○妻ハ一生ノ友也○信者ハ友ヲ選マザレバ一生ヲアヤマツ
 夫信者ニテモ婦不信ナレバ邪魔セラレテ 
 カヽノプリプリト呵スルノニテ十会ノ内五会ハ不参。
 カヽ上物ナレバ夫ヲツキ出ス 故ニカヽハ信者ニセヨ」
(扇全十四巻三一一頁)

 
 善知識には三種四種が伝えられています。外護・同行・教授そして実際実相の事柄となりますが、身近なものは外護、つまり家庭内です。家庭内がいつもご信心に協力的であれば、御利益感得・御奉公成就・寂光参拝の因となります。つれあいの信心が物を言う。

顕証寺報5月号

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