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顕証寺報6月号 所感抄  

顕証寺報 6月

所感抄
                                    顕証寺住職・信清宏章

佛立開導日扇聖人御教歌に

信者のみうちよる組は
       中もよし
  物識貧乏苦情ひまなし

大意
 佛立信者とは、どんな時でも信心第一、御宝前第一、そして御弘通を心がけ功徳を積むことに真剣な人達ばかりで、常に前向きな考え方で何事にも取り組みます。ところが、中にはそうでもない人達もいます。その人達は、御法門を空聞きし、嘘をついて御信心御奉公を怠け、はたまた教務信者の噂話を好み、それがさぞ「自分は何でも知っている」と慢心の材料になるだけで御弘通上、何の益もしない不信者の体を成しているのです。本当の意味で「楽しく」御信心御奉公させていただくには、以上の点をよく踏まえて、物識貧乏苦情に暇がないような寄合にならぬよう、くれぐれも注意が大事とお示しの御教歌です。


 今から40年程前になりますが、先の本堂が建って5年くらいでした。また、先住師匠が御住職に就かれて四・五年経った頃です。顕証寺に書道教室と華道教室がありました。書道教室は、今でも現役で教えていらっしゃる戸塚一教区の鈴木位知朗さんが先生で、師匠もその先生から習っていました。後年、新本堂が出来てからも書道教室は暫く開かれ、私も習いました。今も顕証寺での書道教室を再開してもらいたいくらいです。

 もう一つの華道教室は、Fさんという当時顕証寺のご信者が指導されていました。生徒さんも結構おりました。その生徒さんたちも齢八十を迎えています。四十年前ですから、年齢はその半分でしたね(笑) 後年、私が聞いたことですが、その先生が去るとき、こう言い残していったそうです。「将来の顕証寺は変わりますね」と。それがどういう意味だったか、多くの人にはピンと来ていなかったと思いますが(今も思っている、あるいは気が付いていないかもしれません)その生徒さんたちの人となりを、やはり明治生まれの人から見た、あるいは人を教える立場、感性から言ったのかもしれません。ただ、信者としては「古法華」の見方もあったかもしれません。

 先日、あるご信者から「今の世間の人達、特に口の利き方がなっていないんです」という話を聞き、最近、ご信者と接していても「大分、変わってきた」と思う出来事が去来しました。先月の婦人会御講で「言葉の使い方」を教えてくださいとのことでしたが、席主の信受会が用意してくれた「丁寧語・謙譲語・尊敬語」のテキストを中心に致しましたが、御奉公上の言葉の乱れを是正させるような話題には辿りつけませんでした。それだけ、今は日本語の「基本」がなっていないんだと幻滅するくらいです。

 本門佛立宗では「ありがとうございます」というのが基本の挨拶であることは、まずご信心を始めたころに教わり、身に付けるものです。ところが、ご信心の家庭内でそのような基本を教えているのだろうか?御会式にしかお参りしない、あるいは霊廟やお墓だけで繋がっているような檀家みたいな人の中には、こちらが「ありがとうございます」と挨拶すると「どういたしまして、何時も内の親が(奴‥例、奥さん)が世話になっていまして(笑)」という挨拶が返ってくる場合があります。十代二十代の店員またはテレビの芸人が言うようなアクセントなどを真似して「ありがとうございまーす」などと語尾を伸ばした言い方をする五十代六十代の信者がおります。これは、みっともないから止めなさいとお折伏(しゃくぶく)したことがあります。

 もう一つは、教務住職のことや役中の批判を平気でする。あるいは揚足をとる。もっと言えば反発をする。得てしてそういう人は「仲間」を作るんですね。でも、案外そういう人はある種、出来る人でもあるんです。実に勿体ないと思うのですが・・・。世間でも「器用貧乏」っていますよね。と、いいながら文体が随分だらけてきました(笑)師匠から前に「お講ってなあに?」と寺報に載せたら「そんな言葉載せるんじゃない!」と怒られたことがあります(苦笑)

 器用貧乏と言えば、大智度論に「貧に二種あり、一には財の貧、二には功徳法の貧なり。功徳法の貧は、最も恥づべし。財貧は好人にも亦あり、法貧は好人には無き所なり。」とあり、世間でいう器用貧乏というのは、御法、ご信心の上では「法貧」ということになるのでしょう。

 つまり、何が罪障になり、何が功徳になるのかを即座に見究める感性、信心があるかないかということでしょう。法貧とは功徳貧乏であり、物識、理屈が先立って、口唱・参詣・教化・助行という実践が出来ず、沸々、悶々と苦情に暇がない人に成り下がるのです。

 役中とよくいいますが「役に中る(あたる)」と読みます。中るというのは、責任と使命をもって役に臨むということであります。その役中が責務を忘れ、あるいは自分の仕事だけをやればよいでは良い役中とはいえず、はたまた信者としての分際を弁えもせず、物識(噂好き)功徳貧乏、苦情暇なしの教区、班の御奉公体制にならぬよう注意したいものです。


開導日扇聖人御指南に
「何故ならば物識は御看経がきらひ。兎角人に高慢くさい事が云いたひ 又人に従ふて居る事がきらひ。何に諸天の御守なし 「病神貧乏神常に逗留」」(扇全十一巻三六九頁)


 そうです。物識り貧乏苦情に暇がない人達の体は、必ずと言って良いほど御看経(おかんきん)を嫌い、出来ないのです。そして従うことが出来ません。折伏(しゃくぶく)をいただくことが出来ないのです。それでは「現証御利益」は見せていただけません。教区長や役中さんの折伏に対して「先生みたいなこと言わないで」なんていう口吻(こうふん)を突きつける場面なんかは正に御教歌に示されたそのものであります。

 それとお参詣や御奉公が連日続くと「続いちゃう」などと漏らす人もありますが、これも信心前の程度を曝け出していると思います。「年寄てつとめ働き出来ねども 後世の菩提は今ぞ時なる」の御教歌を服膺(ふくよう)すべきです。どうか功徳を積み損なうような功徳貧乏になりませぬよう、潔い信心前で御題目口唱、折伏教化に励ませていただきましょう。


※【御看経】おかんきん
声を出して経文を読むこと。
【看経】かんきん
① 禅宗などで、声を出さないで経文を読むこと。⇔諷経(ふぎん)。
② 声を出して経文を読むこと。読経(どきよう)。誦経(ずきよう)。

※【折伏】しゃくぶく、しゃくふく
仏語。悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。摂受(しょうじゅ)と共に衆生を仏法に導く手段。「相手の間違った思想に迎合することなく、正しいものは正しいと言い切り、相手と対話を通じて日蓮の仏法を伝えること。

※【口吻】こうふん
口先(くちさき)。口もと。転じて、物の言い方。話し方。口ぶり。「不服そうな―」

※【服膺】ふくよう
常に心にとどめて忘れないこと。

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